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大阪高等裁判所 昭和57年(ネ)1110号 判決 1985年10月30日

控訴人

寺谷文之

控訴人

森田周子

控訴人

寺谷宜子

右三名訴訟代理人

関田政雄

被控訴人

右代表者法務大臣

嶋崎均

右指定代理人

高田敏明

外五名

主文

本件各控訴を棄却する。

控訴人らの債務不履行に基づく損害賠償請求を棄却する。

当審における訴訟費用は控訴人らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  控訴人ら

原判決を取消す。

被控訴人は、控訴人らに対し各金一五六万〇三八一円及びこれに対する昭和三五年七月二一日から各支払済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

訴訟費用は第一、第二審とも被控訴人の負担とする。

仮執行宣言。

二  被控訴人

本件各控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人らの負担とする。

第二  当事者の主張及び証拠関係

一  次に当審における当事者双方の主張、証拠関係を付加するほかは、原判決事実摘示(ただし、原判決七枚目裏六行目の「脈博触知不能」を「脈拍触知不能」と、一五枚目表一〇行目の「七一五一項」を「七一五条一項」と各訂正する。)と同じであるから、これをここに引用する。

二  控訴人らの主張(医療契約における被控訴人の債務不履行責任)

1  医療契約の成立

(一) 甚重は、昭和三二年六月五日に風邪にかかり、開業医である高橋三千彦の診療を受け、同月九日にペニシリンの注射を受けたところ全身に発疹ができて微熱が続き、同月三〇日にストレプトマイシンの注射を受けたところ一日数回の発熱(三九度六分)があり、ふるえが起こるようになつた。高橋医師は、甚重に対し、国立大阪病院で診療を受けることを勧め、同病院長宛の紹介状を書いてくれた。

(二) 同年七月五日午前一〇時ころ、甚重は右紹介状を持つて国立大阪病院へ行き診療を求めたが、午後三時ころになつてようやく同病院長佐谷医師の診療を受け、薬疹と診断されて即日入院し、同日午後四時ころ主治医となつた同病院の荻野医師の診療を受けるに至つた。

(三) 右のように、甚重が国立大阪病院へ行つて診療を求め、同病院の医師が診療を開始したことにより、同人と同病院の開設、経営者である被控訴人との間に同病院の医師による診療を受けることを内容とする医療契約が成立したというべきである。

しかも、甚重は、ペニシリン、ストレプトマイシンによる中毒症につき開業医である高橋医師によつては適切な治療を受けることができなかったので、より高度の医療機関による診療を受けるために国立大阪病院で受診したのであり、同病院における診療は、右のような薬物に対する特異体質者であることを前提とし、一般の医師によるよりもより高度の医療を行うことが右契約の内容をなしていたものである。

2  被控訴人の債務不履行

(一) 佐谷病院長及び荻野医師は、甚重に対し簡単な診察、検査をなしたのみで直ちに奥田看護婦をして本件静注をなさしめ、よつて本件ショックにより甚重は同日午後六時五〇分に死亡するに至つたのである。

(二) 静脈注射は、後記のとおり一般に危険をともなう医療行為であり、医師自らこれを行い、代替を許されないものであるのに、荻野医師は奥田看護婦に行わせたのであり、この点において既に債務の不履行がある。

(三) 甚重は、前記のように薬物中毒症状にあつたのであるから、医師としては当時同人が一般患者とは異なる特異体質であることは容易に知りえたところであり、仮に被控訴人が主張するように同人が胸腺リンパ体質と称されるところの体質であつたとしても、医師による慎重な診察、検査を経れば事前にこれを発見しえないものではない。現に荻野医師は入院時の診察において両側耳後部リンパ腺腫瘍の存在を認めていたのであるから、胸腺リンパ体質を予見することは不可能ではなかつた。また、甚重は、当日午前中から病院に来て長時間待たされていたのであるから、当然に疲労し、抵抗力も弱まつていた筈である。

しかるに、荻野医師は、右のような点について何らの考慮を用いることもなく、特段の検査をすることもなく、安易に奥田看護婦をして本件静注をなさしめたため、本件ショックを起こさせたものである。

(四) 静脈注射は、一般的に危険なものであり、注射液如何にかかわらずショックを惹起する事例がある。ショック状態に陥つた場合の治療は一刻を争うものであるから、医師として静脈注射を行う場合には細心の注意を用いるべきであるとともに、万一患者がショック状態に陥つた場合を考慮して、事前に直ちにこれに対応できる救急医療の十分な準備をなしたうえで行うべきものである。

しかるに荻野医師は、事前検査も不充分のまま経験不足の奥田看護婦に簡単な指示を与えたのみで本件静注を行わせたのである。しかも同医師は右事前準備を何らしていなかつたばかりか、自らその場に立合わなかつたため、本件ショック状態に陥つた甚重に対する緊急の医療処置が遅れて時機を失したのみでなく、右状態を呈した際に先ず投与すべきノルアドレナリン(血管収縮、平滑筋弛緩性薬剤)に先立つてビタカンファーを投与するなど適切な手当をなしえず、同人を死亡するに至らしめたのである。

(五) 本件医療契約における被控訴人の義務履行補助者として甚重の診療に当つた荻野医師としては、その業務の性質からして危険防止のため実験則上要求される最良の注意義務を尽くすべきところ、右(二)ないし(四)のように一般臨床医としての当然の注意義務さえも尽くしたとはいえない。そして、本件医療契約が前記のようにより高度の医療を受けることを内容とすることからすると、同医師の義務懈怠は明らかであつて、被控訴人に本件医療契約上の義務不履行があつたというべきである。

3  よつて、被控訴人は、右債務不履行による損害賠償として、前記引用にかかる原判決事実摘示中の請求原因5記載の損害金とこれに対する同6記載の遅延損害金を控訴人らに対して支払うべき義務がある。

三  被控訴人の主張

1  控訴人らの当審における主張のうち、甚重と被控訴人との間に医療契約の成立した事実は争わないが、その余の主張は争う。

2  甚重は、国立大阪病院に来院する前に高橋医師からペニシリン、ストレプトマイシンの注射を受けていたが、その際にショックを起こしたことはなく、薬物による中毒疹を発症していたのである。薬物によるショックと薬物中毒とは別異のもので、薬物中毒になつたからといつてショックに陥る可能性を予見すべきものではない。

ペレストンNについては、抗生物質等にみられる副作用のないことは明らかにされており、本件以前はもちろん、本件後約一〇年に到つても同剤によるショック死の事例の報告は全くなされていない。

控訴人らは、ノルアドレナリンの投与に先立つてビタカンファーを投与したことを非難するが、ビタカンファーは循環不全並びに呼吸困難時における血管緊張、呼吸中枢興奮剤であつて、血管を緊張、収縮させて血圧上昇作用を有し、その後に投与される救急薬品に対し相加作用があるものであるから、右ビタカンファーの投与をもつて不適切なものとはいえない。

四  証拠関係<省略>

理由

一控訴人らと甚重との身分関係、荻野医師、奥田看護婦が被控訴人の設置、経営する国立大阪病院に勤務するものであること、甚重の発病から右病院における受診、治療並びに死亡に至るまでの経過、右死亡の原因及び甚重が右病院で注射を受けたペレストンNの性質等についての当裁判所の認定判断は、原判決理由中の右の点に関する認定判断の記載(原判決一六枚目表九行目から二四枚目表七行目まで)と同一であるから、右記載をここに引用する。当審における証拠調べの結果によつても右認定を左右しえない。

二甚重に対してペレストンNを静脈注射をしたこと及びその注射の方法、速度等についても、何らの過失のなかつたものと判断する。その理由は右の点に関する原判決理由中の記載(原判決二四枚目表八行目から二九枚目裏一行目まで。ただし、二七枚目裏末行の「除々に」を「徐々に」と、二八枚目裏一行目の「同寺田宜子」を「同寺谷宜子」と各改める。)と同一であるから、右記載をここに引用する。当審における証拠調べの結果によるも右認定を左右しえない。

三甚重の死亡原因につき考えるに、前に引用した原判決理由四の2の「甚重の死因について」の認定事実に、<証拠>によると、甚重は胸腺リンパ性特異体質であり、この体質のものは稀にしか存在せず、この体質を予知することはできないこと、右体質のものは普通では異常を起こさないような軽度の外的刺激に対しても異常に強く反応し、しばしば重篤な症状を呈し、ときに死に転帰する場合があり、静脈注射も右外的刺激の一種であること、甚重は右体質であつたために本件静注による刺激により本件ショック死に至つたものと認めるのが相当であり、この認定に反する証拠はない。

四右のように、本件ショック並びに本件ショック死が予知しえない甚重のいわゆる特異体質によるものであり、一方、本件静注を実施したことが甚重の罹患した薬疹の治療につき適切なものであつたのであるから、たとえ本件静注が本件ショック発症の原因をなしたとしても、荻野医師に本件静注をなしたことにつき過失責任を問いえないことは明らかであり、同医師が自らこれを行わず、奥田看護婦にこれを行わせたとしても、同看護婦の注射実施方法に不当な点のないこと前説示のとおりであるから、同医師又は同看護婦の過失責任を問いえず、奥田看護婦に注射をさせたことをもつて控訴人ら主張の債務不履行責任が生じるとは解しえない。

五荻野医師、奥田看護婦による緊急処置の当否につき検討する。

1  ペレストンNについては、前記引用にかかる原判決理由中に記載のとおり本件当時解毒剤として用いられ、薬理学的にも副作用その他の危険性はないものとされており、同剤の注射による本件のようなショック症状の発症例の報告もなく、一方において甚重の前記特異体質はこれを予知しえないものであつてみれば、同剤の静脈注射をなすにつき、当時の医学知識としては通常の患者に通常の静脈注射を行う場合以上に危険の発生を予測しえなかつたものというべきである。

してみると、事前の検査等によつて甚重の前記体質を予知し、事前に緊急時の準備をなすべきであつた旨の控訴人らの主張は理由がない。

2  控訴人らの主張の中には、静脈注射はすべて危険の発生を予測すべき医療行為であり、これを実施する場合には常に緊急時に対処する準備をなしたうえで行うべきであるとの趣旨をも含むものと解されるところ、<証拠>によると、静脈注射は患者によつては時として危険を発生する場合があり、注射する薬剤の種類を問わず、ブドー糖の静脈注射でも発生した症例があり、医師としては静脈注射を実施するに際し常に右危険の発生を考慮に入れておく必要があることが認められる。

ところで、本件においては、後記のように本件ショック発症後における荻野医師、奥田看護婦の処置に適切を欠くところがなかつたことに鑑みれば、結果として控訴人ら主張の事前準備不足はなかつたものといわざるをえず、控訴人らの右主張も理由がない。

3  控訴人らは、本件ショック発症後における荻野医師、奥田看護婦の処置が不適切であり、ことに時機を失したものであつたと主張するので、この点につき検討する。

(一)  <証拠>によると、本件のような重篤なショック症状に陥つた患者に対しては、時を置かず直ちに血管収縮及び平滑筋弛緩性薬剤等を投与し、同時に人工呼吸、酸素吸入、心臓マッサージ等によつて血圧を上げ、心臓機能、呼吸機能の回復維持することに努め、その他副腎皮質ホルモン等の必要な薬剤を投与し、このような処置は時機を失するとその効果はないこと、右のような処置に万全を尽くしても救命しえない場合のあることを認めることができる。

(二)  前記引用にかかる原判決理由中(三の2の(三)、(四))に記載のように、奥田看護婦は、甚重の容態の急変をみて直ちに本件静注を止めるとともにビタカンファー(<証拠>により循環不全、呼吸困難時における血管緊張、呼吸中枢興奮剤と認められる。)を注射し、かけつけた荻野医師は直ちに人工呼吸、酸素吸入を施すとともに各種血圧上昇、強心、呼吸促進剤等を投与し続けたのであり、右奥田看護婦、荻野医師の処置は、右(一)認定の事実、<証拠>に徹し適切なものであつたと認めることができ、この点につき過失はなかつたものといわざるをえない。

(三)  控訴人らは、荻野医師による緊急処置が時機を失したと主張するが、甚重の容態の変化は極めて急激に来たものであり、同医師がかけつけるまでに奥田看護婦によつて必要な措置の一部が実施されており、同医師としても緊急処置として可能な方法すべてを実施したものというべきである。

ただ、荻野医師は、本件静注を奥田看護婦に行わせ、その場に居合せなかつたため、本件ショックの発症から同医師自らが緊急処置を行うまでに若干の時間を経過したことは否定しえないところではあるが、前認定の甚重の体質、本件ショック発症の急激性からして、同医師自らが本件静注を行つていたとしても、本件ショックの発症を防止し、発症したショックに対し有効な処置をとりえて甚重を救命しえたとは断じ難く、控訴人らの右主張も採用しえないところである。

六以上説示したとおり、荻野医師、奥田看護婦には控訴人ら主張の不法行為を構成すべき過失が認められないから、これを前提とする控訴人らの請求は、その余の点の判断をまつまでもなく、理由がないというべきである。

また、控訴人らは、被控訴人の医療契約上の債務不履行責任を主張し、甚重と被控訴人間に控訴人ら主張(当審主張1の(三)前段)の医療契約の成立したことについては、被控訴人も争わないところであるが、右契約に基づき甚重の診療に当つた荻野医師及び奥田看護婦につき診療上の義務を尽くさなかつたとは認められないこと前説示のとおりであり、他に被控訴人の債務不履行を認めうる証拠もないから、控訴人らの右請求も失当である。

七よつて、原判決は正当であり本件各控訴は理由がないからこれを棄却し、控訴人らが当審で追加した債務不履行による損害賠償請求も理由がないから棄却し、訴訟費用につき民訴法九五条、八九条、九三条を適用し、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官石井 玄 裁判官高田政彦 裁判官辻 忠雄)

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